梧桐瑣記

 

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琴(古琴)ときくと、何を連想されるだろうか。琴棋書画?絵画や文学の中の描写?伝説時代にまで起源を遡るという「悠久の歴史」?それとも無弦琴?

私が琴楽に接した当初はこうした知識には疎く、演奏を聴いてもよく理解できなかったのを覚えている。そしてどうしてこういうのが重視されるのかな?と好奇心で習った事がきっかけとなり、もっと知りたいという思いに変わり、考えたりしている内に今に至っている。

初めて琴楽に接する時、もしかすると退屈で睡魔に襲われるかもしれない。好みの問題を別にしても、琴楽には音楽的側面と同時に、担い手の考え方を反映した、背景となる題材や象徴性など音楽外の要素の比重が少なくないからであろうか。これらの要素は中国の他の古典的な分野と通底していて、琴楽の奥深さも、解り難さもこの辺りにあるのかもしれない。別の例で、ある本で見た一枚の水墨画を挙げてみよう。ささっと画かれた感じの、芋みたいな石と曲がった枯れ木の絵「枯木怪石図」。ぱっと見て綺麗な絵ではないかもしれないが、この題材は「役立ちそうもない木であるがゆえに、伐られたりせずに天寿を全うできる」という道理を踏まえているとしたらどうであろう?少し見方が変わらないだろうか?時々琴曲にも似たような場合があって、つかみどころが無いために自然にわかるまで放ってある曲が私にはある。

さて琴を続けていて興味深いと感じるのは、担い手のつながりを感じる瞬間である。一つは琴譜を見ながら練習している時で、音色に関わる凝った指法があると、以前に弾いた人もここで特別に感じたかなと、身体動作を通した想像が楽しい。注などの文を読んでいる時にも、その琴譜の編纂者を身近に感じることが稀にある。二つめは人の演奏に接する時。目の前の演奏を通して、私は録音でしか聴いたことのない、二世代ほど前の師に当たる方に特徴的な、力強さを再認識できた時は嬉しかった。また別の流派で、繊細で潤いのある音色が数代の学生に渡って受け継がれているのに接し、無形の師承の存在を確かに感じた。三つめは楽器である。骨董的価値のある楽器や由来のある楽器を展示や図録で見ると、有形の楽器を通して、それらを大切に残そうとした人々の思いと風雪を想像せずにはいられない(たまに偽物や判断が微妙な場合もあるが)。今でも弾かれている実物に触れる機会に恵まれれば、感慨は尚更である。

つながりや継承性を意識する一方、現代の生活や音楽環境との間に落差を感じこともある。効率や速さを優先しがちな社会の中で、琴楽はどう共存していけるのかと時々思う。でも考えてみれば、主流のあり方とは異なる特徴をもつことで、何となく当たり前になっている価値基準とは別の方向性を提示できる点が、共存する意義の一つと言えるかもしれない。

 

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 セシリア・リンドクィスト(Cecilia Lindqvst、中国名は林西莉。スウェーデンの研究者で、著書の邦訳に『漢字物語』2010年 東京:木耳社)は、かつて中国で琴楽を学んだ当初のエピソードを記している。『林西莉 古琴的故事』(繁体字中国語版は許嵐;熊彪訳、2009年 台北:猫頭鷹出版)によると、彼女は1961年から二年間北京大学で中国語を学ぶと共に、北京古琴研究会の学員となって王迪(1929-2005)から琴楽を習う。ところが予想に反して進歩が遅いと感じた彼女は、王迪に対してピアノのように全ての指を練習する音階か、その他の練習曲を家で練習させてくれませんか、と提案した。それを聞いて驚いた王迪は彼女を見つめてこう言ったそうである。以下に試訳を少し引用してみる。

「あなたの国ではみんな本当にそうするの?楽器をそんな風に扱うなんて。自分達の楽器を尊重しないのですか?」と。私はその時初めて、本当の意味で中国文化における古琴の地位を理解したと思った。(中略)この楽器の品性は他に並ぶものが無く、その音は人間と大自然とを繋ぎ、魂深くに触れる。(中略)ただし非の打ち所なく一つの音を弾く事が目的なのでは決してなく、肝要なのは琴人が音楽を通して、人生に対する思いを表現することである」

 

琴楽の音楽面の特徴は、ご存じの方もあろうが幾つか挙げると、基本的に単旋律で音量が小さく、標題音楽的な性質を持つことである。その限られた音量の中で、琴人の気魄を含めた微妙で豊かな変化を味わう。独特な音色や抑揚に対する意識を磨くには、楽曲を学びながら自然に技法を習得する方法は理に叶っていると言えよう。王迪は他にも留学生に教えており、機会があればその方々にもお話を伺えたらと思っている。ほぼ三十年後、先生は別の方であるが、私が初学の頃も始めのうちだけ抹挑勾剔や撮など最も基本的な指法と泛音を練習した後は、「仙翁操」という調弦の確認を兼ねた短い曲に移った。

 

 時に、巧みだが琴楽らしさが足りないと感じる演奏に出会うことがある。また時には、技術が未熟なために平淡すぎる演奏もあれば、拙くても好感のもてる演奏もある。好みはそれぞれであるし、琴楽は自娯であり、本人以外の聴き手の感想はあまり意味がないとう立場もあるかもしれない。それはそれとして、では何が重視されているのだろうか。現在に至るまで大きな影響を持つ琴論「谿山琴況」(『大還閣琴譜』所収)を簡単に紹介して一つの手掛かりにしてみたい。著者の明末清初の人物、徐上瀛は琴の演奏におけるあり方を二十四の範疇に分けて総合的に論じている。中でも筆頭の「和」の範疇は「其所首重者、和也」、すなわち第一に重要なものとする(以下「谿山琴況」の日本語部分は全て試訳)。続いて、  

  …絃與指合、指與音合、音與意合、而和至矣。(中略)音從意轉、

  意先乎音、音随乎意、將衆妙歸焉。故欲用其意、必先練其音。練其

  音而後能洽其意。(中略)此皆以音之精義、而乎意之深微也。

 

…弦と指が合い、指と音が合い、音と意が合って、和に至るのである。音は意から転じ、意は音に先立ち、音が意に随うと、様々な妙趣を得るのだ。故に意を用いたければ必ず先に練習するのである。練習の後に意に和合できる。(中略)これらは皆「音の精義」をもって「意の深微」に応ずるのである。

と述べ、絃(楽器)、指(身体)、音(音響)、意(意趣)が和合する関係を論じている。「意先乎音」とあるように、中国の古典的な芸術論において意が重んじられる点は良く知られている。

「古」の範疇では「大都聲爭而媚耳者」(競って耳に媚びるもの)を時(時俗と試訳)、「音澹而會心者」(あっさりして心で悟るもの)を古とした上で、望ましくない例として、「然率疑於古朴、疎疑於沖、似超於時、而病於古矣」(しかし粗雑なのを古朴、間延びしているのを沖淡と思うのは、時俗を超越しているようで実は古に病んでいる)と指摘する。徐氏は更に他の範疇で、宏細、軽重、遅速等の特徴とその相互関係や、偏ることなく相和する重要性を具体的に論じている。

「谿山琴況」の「和」の本文は次のように結ばれる。「太音希聲、古道難復、不以性情中和相遇、而以是技也、斯愈久愈失其矣。」(大いなる音楽は奥深く、古の道は復興し難い。心が中和ではなく、琴楽を単なる技術と考えるならば、ますますその伝を失ってしまうだろう)。

 ここで注目すべきなのは、演奏技術は前提なのであり、同時に性情のあり方が問われている点である。宋代にも演奏の側面に具体的に言及した琴論が見られるが、「谿山琴況」以前の琴の規範に関する言説は、先行する楽論などを踏まえた性情の涵養に重きを置くものが、寧ろ中心のようである。

演奏と性情のあり方の両方を重視する徐氏の観点は、今後も琴楽に深く接するための啓発となり続けるであろう。

 

3  

 琴を弾く人を、職業かどうかは関係なく琴人、琴士などと呼ぶ。琴人には生活を愛する人が多いように私は思う。ここでは蘇軾や張岱ではなく、極めて限られた範囲ではあるが、近現代の琴人の日常の一端を、趣味や活動を通して見てみたい。

もともと画家でもある管平湖(1895-1967)は、北京の家で金魚を飼い南方の植物を上手に育てたという(これらは当時の北方では上手に冬を越すのが難しい)。『今虞琴刊』(1937年)には、今虞琴社と連絡のある琴人達の一種の名簿を載せていて、連絡先の他に師承や所蔵している琴などの項目もある。趣味や活動に関しては「其他音樂」「其他藝術」「雅嗜」の項目があり、人によって異なるが様々な実践を行っていたようである。例えば、中国の各種楽器、崑曲、ピアノ、書画、篆刻、琴制作、囲碁、撮影、詩詞、武術、拳術、風水、飲酒、旅行、今でいうガーデニング、盆栽、凧揚げ、品茶、蟋蟀、金魚や鳥の飼育、吟詩、騎馬、骨董収集などが挙げられ、彼らの暮らしの様子が窺える。

 現代の私が存じ上げる範囲でも、このような傾向があるように思う。書画を実践する方を何人か思いつくし、ある方は琴の研究と演奏の他に、琴以外の楽器にも多く精通されている。また琴の研究と演奏に加えて絵画の個展を開き、書を教え、小説を書いている方もある。自ら琴制作に関わる方もある。

 話は変わり、題名は忘れたが、中世の勇敢な騎士が何かの拍子に現代の都会にある博物館の展示空間にタイムスリップしてしまい、物語が展開する映画がある。印象的だったのは、確かフランスの俳優が演じる騎士がお伴の者と博物館を出た瞬間、大通りのあまりの喧騒に圧倒されて驚き、恐怖におののくシーンである。

 話題がそれてしまったが、程度の差はあれ現代の生活は何かと気が休まらず、住宅等の事情によっては静かに琴と向き合う時間を確保するのは容易ではないかもしれない。そして時間が空いたとしても心に生活を楽しむゆとりが無ければ、奏でる琴の調べも痩せてしまうような気がしている。

以上何やら偉そうに述べたものの、私自身は道草ばかりして散漫な日々を送っている。心身の状態には浪があるし、思うように集中して琴と向き合えない時は気持ちを切り替え、「琴力」向上につながると考えて、例えば散歩に出る、何かを丁寧に行ってみる、読書をする、或いは人と会うなど、日常生活を大事することを心がけていきたい。

 

© 2012 琴楽へのいざない

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